Komaki Castle Records -コマキ キャッスル レコーズ- は、現在準備中です。

2020/05/10 14:55

皆様、こんにちは。
Komaki Castle Records店長の平野です。

皆様ご存じかと思いますが、訃報をお伝えしなければなりません。

ロックンロールのオリジネイターの一人である、Little Richard が先日87歳の生涯を癌で閉じました。

以下がその説明文です。

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ジャンル:ロックンロール
戦後ブルースをロックンロールに押し上げた功労者の一人であるリトルリチャード。代表曲#1 Lucille はルシールと読み、漫画「Beck」に登場するブルースマンが使っているギターの名前で登場しました。1951年にデビュー以来、2013年まで活動をつづけ2019年現在、未だに存命の生ける伝説です。定期的にブームが訪れる50年代の黎明期のロックンロール。
ビービーキングやレスポールといった、レジェンドが相次いで天寿を全うしている現代では、再びブームが訪れるかもしれません。
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彼で思い出されるのはドラマ フルハウスでジェシーおじさん演ずるジョンステイモスと共に友情出演を果たしていたことです。

代表曲ルシールは正に必聴の音源です。

在庫がありますので、是非チェックしてみてください。

また、弊社のYou Tube チャンネルでは彼の追悼企画として彼のBest の追悼動画を差し込んでいます。
https://www.youtube.com/watch?v=v071Ul6gAlE

また以下にLittle Richard の歴史を書きました。
(※)The Rolling Stone Encyclopedia of Rock & Roll 3rd edition を参考に書いています。

はねるピアノとハウリングするリリックのワイルドなファルセットでリトルリチャードはR&Rの星として知られています。
ロックンロールの生誕に強い影響力を与えました。

彼のギターを握らないスタイル、マスカラでコーティングされた眉毛、そしてほとんど女々しいポンパドール(You Tube 動画で確認できます。)は当時のニューミュージックの歓喜のセクシャリティーと反抗心を象徴していました。

彼独自の叫ぶスタイルはすべての人々の耳に残りました。つまり彼はR&Rのキングだったわけです。

12人の子どもの内のひとりとして生まれた、ペニマン(リトルリチャード)は、敬虔な家族の元育ち、彼の2人のおじとおばあさんは、
宣教師でした。しかし彼の父親は密売酒を販売していました。

若いリトルリチャードはゴスペルを歌い、地元の教会でピアノを習います。

しかし、彼の母親は一度たりとも彼の音楽に対する興味を励ますことはしませんでした。

そして13歳になった時、彼は彼の家から追い出されます。
1982年のインタビューではこれは彼のホモセクシャルの嗜好によるものだったそうです。

彼は当時メイコンのティクトッククラブを経営していた、アンとジョニージョンソンの白人の家庭に引越します。
そこで彼は最初のパフォーマンスを行いました。

1951年にはアトランタのラジオオーディションに参加した後、ペニマンはRCAレーベルとの契約を勝ち取りました。

彼の翌2年間の録音は従来の"Every Hour""Get Rich Quick"といった従来のジャンプブルーズでしたが両方とも大衆の目に留まることはありませんでした。

1952年彼はヒューストンへと引っ越し、ドンロビーのピーコックレーベルの為に録音を行います。彼はデューシズのバックアップメンバーとしてレコーディングを行いますが、1955年にはヒューストンに引越しジョニーオーティスオーケストラのために録音を行います。

彼は小さなナイトクラブを周ります。いわゆる(ドサまわり)ここではいわゆるブルースを演奏しており、彼のロックはあまり高い評価を受けませんでした。

彼の運気は下降していきますが、ここでかれはデモテープをL.A.のスペシャリティーレコードに送ります。

この間彼の喉のコンディションを磨いていた彼はニューオリンズのミュージシャンのフロントとなります。

ループは”Bumps”と契約をし、ブラックウェルをプロデューサとして招きます。

その中の楽曲の一つとしてTutti Fluttiが挙げられます。
(ニューオリンズのライターであるドロシー ラボストリエによって作詞)

リトルリチャードは1955年12月14日にスタジオ入りします。

リチャードのはねるようなボーカル、"Tutti Flutti"で聞くことの出来るセクシーでバカげたリリック、そしてワイルドなピアノは後に彼のスタイルを確立しました。

シングルは黒人と白人のファンに1968年までに300万枚を売り上げました。

その影響はものすごいものでした。
約36の楽曲を生み出し、7つのゴールドヒットを生み出します。それが以下となります。
Tutti Flutti = Best に収録
Long Tall Sally = Bestに収録
Rit It Up=Bestに収録
Lucille=Bestに収録
Jenny Jenny=Bestに収録
Keep A Knockin=Bestに収録
Good Golly, Miss Molly=Bestに収録
時を同じくして多くの映画にも出演しています。
Don't Knock the Rock(1956)
The Girl Can't Help It(1956)このタイトル曲には彼のリーディングが収録されています。
Mister Rock 'n' Roll(1957)

しかし1957年には彼は彼の成功の頂点に立っていましたが、リトルリチャードは急に、ロックのキャリアをやめ
オーストラリアへと飛びます。

彼は幻覚を見たと主張し、彼の懲罰を経験したと話しました。

彼の出版されたバイオには、暗闇の中で飛行機が火に包まれたと回想しています。

彼は神様に飛行機が無事に着陸したら、自分の考えを改めると誓います。

数日後、外でパフォーミングをしているとき、ロシアの旅客機スプートニクを目撃しました。

そしてさらに数日後彼が載る予定だった飛行機は墜落をしました。

彼はこれらの出来事を、自分の考えを改めるべきであるという神のしるしと解釈します。

リチャードはオークウッド大学、アラバマ州ヒューストンに入学し、

博士号を獲得します。そして教会の聖職者となります。
そう主張して以来、大臣とはなりませんでした。

そして彼は以下のヒット作品"Keep a Knockin"=Best に収録 をリリースします。

1959年には最初の宗教的なアルバム"God Is Real"をリリースしました。

1964年までリチャードはロックに回帰しませんでした。
福音派の聴衆の耳を掴むことの試みに失敗したあと、
彼は彼の復活を時代錯誤なナンバーで果たします。

しかし、世界の興味は既にビートルズなどの新しいサウンドに移っていました。

何年か経て、リチャードは多くのカムバックの試みを、Vee-Jay, Modern, Okeh and Brunswickから行いますが
多くは失敗に終わってしまいました。

彼が最も成功したのは70年代初期にリプライスとの契約です。
ここで彼はいくつかのレコーディングセッションをデラニー、ボニー、そしてカンド・ヒートと行います。

70年代にリチャードはいくつかのレイトショーでトークを行います。
しかし、ここで彼は再び、教会、説教、ゴスペル、ロックンロール、ドラッグ、そして自分の性的嗜好に悩まされます。

何年か後かれは彼のホモセクシャルの嗜好をほのめかします。
しかし2000年には彼は最も正確にロサンゼルスタイムスに回想を寄せています。
"僕はあの当時狂っていたんだと思う。あの時僕はすべての面で華やかだったけどあの時に自分を振り返ることが出来て、そしてありがとう神様、そして続けることが出来たんだ。"

1984年にはチャールスルイスによる彼のバイオグラフィーが出版されます。

この本は多くの注目を集めました。
率直に言うとこの本は多くの面白い逸話を残しました。
(ストリッパーとバディーホリーとの3Pの話や麻薬中毒の話です)
そして彼の性に関する罪悪感溢れる記録です。

ホモセクシャルは伝染病だよ、もって生まれたものではないんだ。
とかれは語ります。

"本は何章にもわたるリチャードによる説教で幕を閉じます"
”後にリチャードはいくつかの本の一部で誤解したと話ます”

彼は著作権を長年のマネージャーであるチャールスホワイトとロバート”バンプス”ブラックウェルと分かち合いました。

しかし、長年リチャードは表舞台に立つことはありませんでした。

そして1985年 60代にして彼は恐ろしい復帰をヒット映画Down and Out in Beverly Hillsで、そして
Why Do Fools Fall in Love そしてLast Action Heroで果たします。

そしてゲスト出演をMiami Vice, Martin そしてシットコムシリーズのFull House で果たします。
そしてタコベルやマクドナルドといったいくつかのCMで大道商人として活躍します。

そしてかれはU2-BB Kingのバックボーカルとして、"When Love Comes to Town"ではエルトンジョンとデュエットを果たします。

そして後にはタンヤタッカーのリズム、カントリー & ブルースで共演を果たします。

彼の名声は第一世代のファンから後の世代に引き継がれ、そして孫まで引き継がれます。

ロックバージョンのItsy Bitsy Spiderが小児エイズの基金として結成された、For Our Children というベネフィットアルバムに収録されます。そこで彼はShake It All Aboutを収録しています=Bestには未収録

そこには彼自身の作品"Keep A Knocking", On the Top of Old Smokinといった楽曲が収録されました。

(この楽曲では子供達のコーラスの裏で彼のシャラップ!という声が聴けます)

彼はまた、 Kermit Unpigged や Shelly Duvallの賞を受賞した子供のビデオ、マザーグースにも参加しています。

彼はまた、PBSの子どものプログラムであるマジックスクールバスにも楽曲を提供しました。

21世紀にはリチャードは世界中で最も語られるセレブとして認知されました。

彼の人生は、レオンのテレビ番組に出たときに取り上げられました。

明かに齢を重ねていない彼はツアーに出続け、彼の音楽への情熱は衰えるところを知りません。

彼の66歳の誕生日のあと、彼はこう語っています。

"俺はいまだに美しい、俺は確信している。"
リチャードはロックの殿堂入りを果たしました。

1993年にリチャードは生涯功労賞を全国レコーディングアカデミーで獲得しました。

彼はビルクリントンの1992年の大統領就任式でパフォーマンスを行います。

彼の地元のメイコンでは彼の名前が冠せられた通り:Little Richard Penniman Boulevardがあります

彼はまたR&Bのパイオニア賞も獲得しました。